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眼鏡レンズメーカーの古沢レンズ工場(現東海光学)は当時社長だった古沢静のもと数々の生産改革を成し遂げ、受注を拡大した。そして1958年に転機を迎えた。菊池眼鏡院(現キクチメガネ)社長の森文雄から「AJOCのレンズを一手に引き受けてくれないか」と取引の打診を受けたのだ。
AJOCとは森が中心となって設立した組織。全国に点在する眼鏡小売店7社が共同で商品の仕入れや、オリジナル商品を開発する業界初のボランタリーチェーンだ。当時、レンズはメーカーから卸問屋を経て小売店に流通するのが一般的。メーカーが小売店と直で取引するのは異例なことだった。
森は静が下村レンズ研究所で勤務していた時の顧客。高品質で効率的なレンズ生産技術を生んだ静の才能に驚くと同時に感心していた。さらに当時では珍しい在庫政策を行っていたことも取引の決め手となりAJOCとの付き合いが始まった。

在庫政策は小売店に代わりメーカーがレンズをストックする手法。在庫を抱えることは経営リスクを高めることになるが、静は顧客第一主義を貫きこの手法を選択した。このため小売店は在庫リスクを回避でき、安心して取引できた。
その後、AJOCが加盟店数を増やしたことで受注も拡大し、社名を東海光学に変更。67年12月期売上高は1億円の大台に乗った。AJOCとは現在でも取引を続けており、全売上高の2割を占めるほどだ。現会長の武雄は「AJOCとの出会いは財産」と感慨深く語る。
70年代に入ると、高度経済成長とともにレンズの技術開発は急速に進み、軽くて耐衝撃性のあるプラスチックレンズが登場した。ガラスからプラスチックへ―。レンズ素材の転換期に入った。
AJOCの会員と初めての欧州視察に行った古沢静(右から4人目)
72年、営業のトップだった武雄は「近い将来、プラスチックレンズがレンズの主流になる。早く手を打たないと」とプラスチックレンズへの参入を提案した。武雄の意に反し周囲は「ガラスレンズの需要はある。今後もガラスで勝負する」と提案は拒否された。
だが一人だけ賛同者がいた。森だった。森もプラスチックレンズの将来性を確信していた。同年、AJOCから正式にプラスチックレンズ納入の依頼を受け、鴨田工場(愛知県岡崎市)内にプラスチックレンズの製造設備を導入した。
しかし当時はまだプラスチックレンズを製造していたわけではない。研磨機などを設置し、欧州のレンズメーカーから輸入したレンズを加工・販売していたにすぎない。だが武雄の思惑は的中。74年9月期売上高はプラスチックレンズの販売の拡大で、前期比35.4%増の8億8000万円を計上するまでになった。
その後もプラスチックレンズの需要増とともに業績はうなぎ登り。順風満帆に推移したが“好事魔多し”。80年に事件が起こった。欧州からプラスチックレンズの一部が輸入できなくなったのだ。
(敬称略)
出典 : (株)日刊工業新聞社
2010年5月12日(水) 24面 13版
転載承諾番号 N-4420
2010年5月12日(水) 24面 13版
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