History

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80周年社史『時代はプラスチックへ』

第一号ラボの誕生と武雄の入社

昭和40年、東京営業所の移転、九州出張所の開設に続いて名古屋市白壁町に名古屋営業所を開設。東海光学株式会社として合併後、はじめての拠点となった。木造二階建ての建物1階に東海光学のラボラトリーの第1号「名古屋ラボ」である。ここで、量産がしにくいバイフォーカル(二重焦点)レンズや特注レンズなど特注品製造の体制を固めた。

当時、処方箋からつくる特注レンズは、ひとつひとつ測りながら手で切削して仕上げていくため、大変難しく費用もかかる製品だった。とくに内面乱視レンズは1日2〜3枚の生産が限度で、ラボ開設の1年あまりは特定の注文を捌くだけで精一杯だった。ラボには、シューロンというアメリカ製の研磨機が導入されており、日本国内初導入ということで見学者も多かった。開設2年目からは体制も整い、月に3000枚ほどの生産量で徐々に他の小売店へも販売を広げることができた。

さて、名古屋ラボ開設から2年後の昭和42年には東海光学の歴史上、語らずにはいられない出来事がある。現会長の武雄の入社である。鴨田工場に1週間いたあと名古屋ラボへ配属された武雄は、まずは眼鏡の勉強をはじめた。B5の誌面にみっちりと記されたこの学習ノートは、通称「武雄の本」として以降10年あまり新入社員の教科書となった。

コーティングレンズの技術構築

東海光学の成長の鍵をにぎるひとつが、絶え間ない技術革新と設備投資である。そして、どの時代も東海光学とAJOCは手を取り合ってレンズの品質を重視する政策をとり続け、それが他社との圧倒的な差別化ともなった。

さて、武雄が入社して最初に取り組んだ仕事が、コーティングレンズの開発と販売である。コーティングレンズとは、レンズの表面に特殊な物質を付加し、通常のレンズよりも光線反射を少なくして透過率を高めたレンズである。昭和42年に東海光学はコーティングレンズの製造開始を決定。日本ではじめてイタリアから本格的なコーティングマシン(真空蒸着装置)2台を鴨田工場に導入した。さらに武雄が目をつけたのがGLAR真空蒸着装置である。これを4台も購入した。武雄は当時、入社2年目。チャレンジにはお金を惜しまない。革新に向かって恐れず進む。静と武雄に共通したのは、こうした「夢」への飽くなき挑戦心だった。

その後、コーティングレンズの需要は増加の一途を辿る。一方で、設備導入と同時に問われるのはその生産体制であった。新技術には未知の部分が付きまとう。機械のメンテナンスや前処理技術、室内の環境技術など、どれが狂っても効率に関わる。さらに二交代制勤務を導入するなどで労務管理もひと筋縄ではいかない。失敗を何度も繰り返しながらも、東海光学は生産力と国際競争力をつけていったのである。

累進レンズ「ZOOM」販売開始

「お客様のご要望にあった新しい商品を開発する」。そんな信念のもと、営業課長であった武雄は新たな挑戦を開始する。昭和44年、東海光学は累進レンズ(遠近両用レンズ)「ZOOM」の販売を決定した。当時、累進レンズは東海光学の「ZOOM」ともう1社しか国内市場にはなかった。

昭和45年には、武雄は初めて海外視察へいき、新しい機械を購入することになる。フランスの本格的高速一枚研磨方式の機械である。研磨の短縮はコストを引き下げるだけでなく、在庫や仕掛品を少なくできる利点もある。しかし、問題点もあった。この機械は研磨皿全体にダイヤモンドが貼られている方式で切削能力は高いが傷がつきやすく、国内の規格に合うレンズはできなかった。そこで自社技術で開発したダイヤモンドペレットで解決した。こうした技術調整の積み重ねが、東海光学の技術力を底上げした。そしてこの研磨の高速化によって、東海光学はまた世の中の一歩先をいくことができたのである。

この時の海外視察で、武雄はフランスのプラスチックメーカー「オルマ社」に立ち寄っている。当時、プラスチックレンズのシェアはフランスで20%、日本では限りなく0に近い数字。しかし、野生の勘とも言える“兆し”を武雄は感じていた。「ここに大きなチャンスがある」。この時から、武雄はプラスチックレンズの研究に傾倒していくことになる。

プラスチック元年と経営の近代化

「プラスチックをガラスのように硬く強くするにはどうしたらいいか」。プラスチックレンズの開発は失敗の連続だった。プラスチック用の真空蒸着装置はどこにもない。アメリカから最新鋭のエレクトロガンを購入し、蒸着装置に取り付けて真空状態の中で低融点のガラスを飛ばしてプラスチックの表面に蒸着する方法をとったこともある。しかし、一度も成功しなかった。この挑戦から10年後の昭和56年、アメリカで開発されたクライオポンプという真空蒸着装置が完成して、プラスチックコートの道は一気に開けることになる。

昭和47年には名古屋ラボを岡崎に引き上げ、さらにAJOCからプラスチックレンズの技術研究について正式な相談があり、鴨田工場にプラスチックレンズの専用ラボを開設。その年、東海光学は半製品を研磨して最初のプラスチックレンズ商品「メジャー」、「スーパーメジャー」を発売する。プラスチックレンズはその後14年間で約10倍の生産量に伸びている。

翌年の昭和48年には累進レンズ「ZOOM」の新製品となる国内初のプラスチック累進レンズ「ZOOM HIFI」を発売。また、昭和51年には高屈折ガラスレンズ1.7「ハイライト」を発売する。東海光学がもつコーティング技術を結集させて開発したこのレンズは、他社を引き付けないヒット商品となった。

昭和47年は、東海光学の組織力が強化された年でもあり、経営理念と方針を打ち出した。「お客様を第一に考え行動し、お客様とともに行動する」という営業部長・武雄の信念が色濃く映し出された組織体制で、新たなスタートを切ったのである。近代的経営を進めるなかで、昭和51年にはファクシミリを導入、さらに翌年コンピュータの導入も行い、業界初の受発注ネットワークを構築。「24時間デリバリーシステム 1DAYサービス」の体制が作られる。「心を込めたサービスをいかに提供し続けるか」。こうした想いが、業界に先駆けた独自のサービスを作り出したのである。